過労人間の1日
その森の木々は風にさやぐが、その他に動くものはない。完全に時の流れから切り離されてしまったようで、しかしふと、ある一本の木が、老いにかがまり倒れてしまう。
もしそこに誰もいなかったとして、誰もその木の倒れるのを見ず、誰もその音を聞かなかったなら、果たしてその木は倒れたのだろうか?誰一人その死を知らず、これからも知れるはずもなく、それでもその木はいたのだろうか?
大抵の人はおそらく『居た』と、『木は倒れた』と言うと思うが、もしそうならば、ちょっと奇妙なことになる。自分の知覚出来ないことを、存在すると認めてしまえば、幽霊だって居ることになるし、UFOだって居るだろう。それだけでなくて、全知全能の神がいて、その手に余る悪魔もいるし、全知全能の悪魔すらいて、その手に余る神様がいて。世界の秩序は失われ、矛盾だらけで不安である。
それならその木は『倒れなかった』と言うかも知れぬが、それはそれなりに変な結果だ。もし知覚出来ぬものが存在しないなら、自分の死後に、子供も偉業も感じられぬのに、一体なにが残るのだろうか。
これは苦しい選択であるが、僕は後者を選んでいる。論理的に破綻した世界は、そもそも生きるに値せぬから。しかしながら、当然の疑問が生ずる。すべてが『無』へと帰するなら、一体なんの為に生きるか?
知覚する世界のみを生き
知覚出来ない何かを信じる
そう思う人が宗教家であり
哲学者だと思っている
現実的なものは理性的であり
理性的なものは現実的である
Byヘーゲル